3.31.2010

Democracy or Wisdom?


私が勉強している政治学という学問は,人間の営みにかかわる非常に広い問題関心を含むとても面白い学問なんだけれども,触れる機会をもったことのない人にしてみれば,いったい何を勉強しているのかよくわからないのかもしれない。実際数年前に京都の長屋で一晩をともにした仙台出身の陶芸家という女の子は,私が「比較政治学会」に来たと言うと,そんな学会があるんだ〜って驚いていた。私にしてみれば,陶芸家なんていうその子の方が,ずっと不思議な存在に思えたんだけれども。

人が集まれば,公共の場が生まれて,そこには「政治」というものが不可避であるとすれば,政治学は人間の営みと切っても切りはなせない学問なんだけれども,そこに含まれるものにはとても幅があるので,今日はその中でも昨日本を読んでいて考えたことを書いてみたい。

Miguel Angel Centeno著
Democracy within Reason: Technocratic Revolution in Mexico (1997) をもとに。

民主主義と「良い統治」は矛盾するのか?

日本は民主主義国だ。でも実は,うちの祖父母が子どもの頃は民主主義じゃなかったことを考えれば,日本の歴史の中で,わりと新しい制度だといえる。民主主義って,いい制度なんだろうか。日本の政治家を見てみよう。あまり専門知識を持っているとも思えないおじさんたちの収賄疑惑だとか,毎日のように報道されていて,起訴されるとしても決まって秘書だけ。あまり珍しいとも思わなくなってしまった。彼らにいい政治ができてるんだろうか。

そもそも古代ギリシアではすでに,民主主義は衆愚政治となりうるという指摘がなされていた。専門知識のない者が,専門知識のない者を選び,彼らが寄り集まって愚かな政治をする,というわけだ。そこでプラトンは,知・徳のある哲人が政を治めるのがよい政治形態だといった。

このギリシアの議論は,世紀を超えて私たちの時代においてもまったく関係のないものではない。民主主義ってめんどくさい体制なのである。なにかを決めるのにもいろんな合意がいって時間がかかる。効率性と瞬発力の求められるような危機的な状況に際しては,「哲人」みたいな人が最適な政策をぱぱっと決めてやっちゃうのがいいのではないか。

実際それが行なわれたのが,メキシコなどのラテンアメリカ諸国だった。これらの国は80年代に未曾有の経済危機に見舞われた。一国の経済が崩壊した。要するに,効率性と瞬発力の求められるような危機的な状況に遭遇したのだった。しかもこれらの国の民主主義は,生まれたてのまだ不安定な民主主義だった。そんなとき,経済の立て直しを担ったのが,テクノクラートと呼ばれる専門技術官僚だったのである。政治的利害をもたず,「正解」を知っている彼らが,国にとって最適と思われる政策を行なった。まさに哲人政治の現代版といえる。

どこの国においても,テクノクラートや官僚は,自分たちの能力にある程度自信をもっているものだ。それは悪いことではない。ただ,この自己評価,発展途上国では過大評価になる傾向がある。日本のようにほとんどの人が義務教育を終え,多くの人が高等教育を受けるような社会ではなく,大学などいく人は全人口からみると限られているから,官僚のエリート意識も日本より強いのだと思う。ましてやアメリカで博士号をとって自国に戻ってくるような人のエリート意識たるやである。これは,大衆に対する不信につながっている。無知な人々が選ぶような人間に政治をまかせておいて,良い統治ができるはずがない,というのである。

たしかに,複雑な合意過程を経ずに,専門家がぱぱっと決めてしまうような統治では,危機的な状況下で最適な政策がとられうるのかもしれない。しかし,誰にとって「最適」なのか。

エリート主義の統治がはらむ問題点は,日本の軍国主義をみても,ソビエトのレーニン主義をみても,南米軍政をみても,今日の北朝鮮をみても,明らかである。メキシコなどのテクノクラシーがもたらした負の遺産,すなわち社会格差の拡大も広く知られるところとなった。民主主義には非効率的で瞬発力に欠ける側面があるけれども,そうであるがゆえに,他の体制に比べて「一番悪くない」政治体制だといえるのではないか。この究極に消極的な理由こそが,民主主義の存在意義である気がする。そして,ときどきみんながこの事実を忘れそうになったとき,ほら思い出してください,こんなことがあったでしょうと,蓄積された深く正確な専門知識をもって警鐘をならすことも,ジャーナリストや他のマスコミとは異なる政治学者の役割なのだと思う。

写真は関係ないけれど,タンピコの魚市にて。おこぼれをもらいに集まるペリカンに釘付けの息子氏とおじいちゃん。

0 件のコメント: