12.26.2012

ミャーオとなくネコ

なぜだか近所に一つはあるもの。
どこに住んでも必ずあるもの。
それはネコ屋敷である。

玄関先や生け垣の間、屋根の上にも軒先にもネコがふてぶてしくうずくまっている。たいていの場合「外」に対しては愛想はわるく、内向き志向の性格である。僕が乳児期を過ごした東京・中野の商店街にも、例に漏れないネコ屋敷が存在した。穏やかな冬の昼下がり、お陽様を求めてしなやかな体躯のネコたちが屋敷の窓際に現れると、小さな僕は音を立てて笑い、喜んだ。僕はうんと小さい頃から、犬よりも断然ネコ贔屓なのだ。

長崎のばぁばのうちの並びにも、この辺りでは地味に有名なネコ屋敷がある。普段は僕が安易に近寄っても、決して体をなでさせてはくれない誇り高きネコたちなのだけど、今日は屋敷の玄関先で、白に黒のドットの入った小さな子猫をみつけた。ちょん切れたようなしっぽが特徴の、立派な長崎野良ネコである。僕がそっと近寄ると、一瞬びくりと体を震わせて、それから僕の指の匂いを嗅いでペロリとなめた。かわいいな! 嬉しくなって子猫の背中をなでてやった。子猫は「ミャーオ、ミャーオ」と気持ち良さそうにないた。

すると突然玄関の戸が開いて、家主のおじさんが顔を出した。怒られる!と思った僕は、慌ててママの方に駆け寄って、彼女の後ろに隠れた。おじさんが言う。「持っていきたかったら、持っていかんね。こんネコたちは、みんな野良よ。うちのじいさんが餌ばやるもんやっけんね…。」それを聞いて僕はママに言った。「僕はまだ『ミャーオ』ってなくネコは持ってないんだよ。僕のにゃあにゃは『ミャーオ』って言わないんだよ。僕は『ミャーオ』ってなくネコが欲しいんだよ。」ママは目を丸くして驚いて、「そうなのか。それなら仕方ない」と言って、おじさんに「じゃあこのネコ、いただいて帰ります」と言った。こうして僕と子猫はきょうだいになった。子猫は「パンダ」と名付けられた。


12.19.2012

ばかげてる、と3回くらいは叫んでおきたい

選挙もばかげていたし、日本の新聞を開いてもちっとも面白いことがないので、ウルグアイの新聞をまずは朝からチェックするのが日課である。そうすると、「病身のチャベス(ベネズエラ大統領)のために、ムヒカ(ウルグアイ大統領)がミサで祈祷する」とか、なんとも素敵なニュースが一面だったりするので、とてもよい一日のスタートを切ることができる。ムヒカは社会主義者で無神論者なのであるが、閣僚、党関係者と一緒にミサに列席し、「こういうときには、祈るしかないんだ」と控えめに発言する。ムヒカみたいにフェアな人が国のリーダーだったらいいよなあと思う。

朝日新聞の調査では、投票に行かなかった人の行かなかった理由でダントツ多かったのは、「投票しても政治は変わらないから」というものでしたが、まったく同感ですよね。。それが問題ですよね。。


12.11.2012

ペレーヴィンと小説の可能性について

ロシアの作家、ヴィクトル・ペレーヴィンがすごい。

『宇宙飛行士オモン・ラー』を読んだときにこりゃ面白いと思ったのだが、『チャパーエフと空虚』を読んでワクワクは確信にかわった。暇な方にはどうぞお勧めしますよ!

ちなみに翻訳は、チャパーエフの方が格段によかった。他の作品も読んでみたいと思っているが、こういう「周辺国文学」は文豪レベルじゃないとなかなか文庫にならないから、一冊がいちいち高くて玉にきずである。

上の二冊は、いずれも扱われる題材は完全に20世紀的である。革命とか、国家とか(ミラン・クンデラが『冗談』をラブ・ストーリーだと主張するようなことをペレーヴィンもやるとしても――きわめて起こりえそうに思われるけれども――少なくとも背景となる舞台装置のテーマは)。先日友人と紅葉狩りに行った際に話題となったことの一つに、「小説は終わったフォーマットなのか?」という問いがあったのだけど、これについては私はまだよくわからない。彼が言うように、21世紀の少なくともここ日本において、皆が共通して信じられるような理念や理想なんてものが存在しないのだとすれば、そして各人が、(国家や政治変動、戦争といった個人の手を離れた事象に流される客体としてではなく)自分の思いのままに世界を作り替えることができる主体としての位置づけを確立したのだとすれば、たしかに小説という媒体には「21世紀的な」限界があるといえるのかもしれない。それでもなんとなくそう割り切れないのは、おそらく以下の二つの理由からだと思う。

(1)20世紀的テーマは、世界にまだ確実に残っている。
(2)規範的な問題として、日本の文化的アトム化現象(と今私が勝手に名前をつけた)に賛同しかねる(もちろん、私が賛同しようがすまいが、文化的流れというものがそこに力強くあるとすれば、その存在は否定できないけれども)。

こんなことを書くと、自分が頭の固い保守主義者のように思われてくる。(1)については私が政治学や途上国に接する機会が多いために、相対的にバイアスがかかっていることもあろう。私が日常接する「世界」では、革命もクーデタも職権濫用も不正も貧困も階級すらなくなっていない。(2)については私の無知からくるところがとても大きいし、これを21世紀的価値と名付けるなら、21世紀価値と20世紀的価値はそもそも相反するわけではないのかもしれない。検討を要する。

ペレーヴィンもそうなのだが、私が惹かれる文学は、非常に個人的な経験を描きつつ、その奥、あるいは上にあるどろどろとしたつかみ所のない――しかし、確実に触知できる――「権力」や「時代」のようなものの歪みや偏りを描き出すような、そういうもののようである。こう書けば陳腐にきこえるけど、なかなか実際これに成功している作家はそうはいないのかもしれない。小説から「共感」をとってしまえば、おそらくあまりたいしたものは後には残らないだろう。その意味で21世紀において小説は終わったとする説にも、弱々しくも首肯してしまう次第なのである。


12.10.2012

パズル部



冬はパズル部なり。



こちらは部長のお気に入り。
あっ  というまにできるようになりましたので
ママ部員をてつだってくれるですよ。