5.09.2013

終わりははじまり

しばらく考えてみたのですが、このブログを終わりにすることにします。理由は、まったく複雑なものではないけれど書こうとするとむつかしいですが、私の大好きなお行儀のわるい J. アーヴィング風にいえば、それは役割を終えてしまって、ただそれだけのことなのだ、という感じでしょうか。それでも「書くこと」はこれからもずっと終わらないし、それは私を助け続けるし、きっと息子のことも助け続けるだろうと思います。

ブログというのは書き手からの一方通行ではなく、読み手とのやりとりの感触がある点で、自分だけで完結する日記とは異なる表現・伝達様式ですが、面白いのはそのやりとりの微妙な時間差や温度差であるような気がします。向かい合って話しているときのそれらの差異(の不在)とも、小説家と読者の間におけるそれらの差異とも違う。まあこれも面白かったけど、そろそろ別の様式でもいいのかもしれない(日記にしちゃうことも含めて)と、なんとなく博論が終わってから思っていたので、いったんブログをやめることにした次第です。というわけでまずは、近い未来に美味しいものでもご一緒しながら、向かい合って語り合いましょう。


4.25.2013

経済政策についての所感

今日の朝刊(朝日)のトップは、国会に提出された政府の消費増税転嫁法案についての記事でした。私はほとんどテレビを見ないので、この法案についてどういった議論が巷でなされているのかよく知らないのですが、なんだか気持ちの悪い法案だなあという印象です。納入→小売り→消費者に税金がちゃんと転嫁されていくように、小売店のセールの謳い文句まで規制するのだそうです。結局この政策のおおもとには、「インフレさせたい」という政府の一貫した意図があるように思ったのですが、今朝の新聞を読む限り詳しいところまで踏み込んだ解説がないので、よくわかりません。テレビの方ではすでにいろいろな解釈がなされているのだろうと思いますが。

これとは対照的に、昨日4月24日付けウルグアイのエル・パイス紙(デジタル版)の一面は、インフレ抑制のために、中央労組が農産物などを直接消費者に販売する措置をとることを決めたと報道しています。そういえば2年前にブエノスアイレスに滞在していたときには、政府がインフレ抑制のために、「全国民にミラネサを計画」なるものを打ち出し、アルゼンチンの庶民料理であるミラネサ(いわゆるミラノ風牛肉のカツレツ)に小売り価格制限を設ける(価格統制)、というようなことをやっていました。ウルグアイは政労使間の協調によってインフレ緩和を促す努力が見られる例であり、アルゼンチンはより政府側の一方的なイニシアティヴが目立つ例ではありますが、いずれにしても過去に年率4ケタ台にも達するハイパー・インフレを経験してきた地域だけに、両国のインフレに対する警戒感には並々ならないものがあります。

まあ日本の状況をラテンアメリカと比較するのは適当でないかもしれませんが、日本の公的債務状況に鑑みれば、近い将来ハイパー・インフレという事態もなくはないはずです(なお、アルゼンチンやウルグアイも、過去に国債(いわゆるソブリン債)による対外・対内債務危機に陥りました。アルゼンチンの国債デフォルトは日本でも悪名高い)。日本の現政権の経済政策で市場は湧いているようですが、幕間の解決策でしかないようにも思われる今日この頃です。



4.24.2013

ちょっと気になること

数ヶ月前に整形外科に行ったときのこと、若い院長先生から「現代人は上を見る機会よりも、下を見ることの方が多いですから」と説明を受けたのだが、非常に哲学的だ、と思った。本当にそうである。本を読むのもノートパソコンも下向き。それに日本の台所は小柄な女性に合わせて作られているので、残念ながら165cmの私の場合、キャベツを切るときも皿を洗うときも首は下を向いている(ちなみにこれまで背が高くて得したと思った経験は特にない)。物理的には無理なら、せめて気持ちくらい上を向いていたいものである。

話はかわるが、「いつもトイレをきれいにご使用いただき ありがとうございます」といった、いわば「予言的手法」による要請を目にしたことがおありだろうか。私がトイレをきれいに使っているか否かなんてわかりっこないのに、「ありがとう」と先回りで感謝されるのである。初めてこんな変な日本語の張り紙を見たときには、なんだか違和感を覚えたものだったが、昨今このような言い回しが増えたような印象がある。外国語の言い回しを輸入したのではないかと推測している。昔はあまりなかったような気がするのだが、私が気づいていなかっただけかもしれない。

そして今日、麻布十番の駅で、「いつも環境にやさしい鉄道をご利用いただき ありがとうございます」という張り紙を見かけてびっくりした。ありがとうも何も、心当たりがないけれども。ありがとうの予言的使用。文法書にも載せるべきかもしれない。


4.23.2013

神のはからい

「人生に真の意味で意味なんてない」ことは、絶望を強いる事実ではなく、むしろ朗報 "good news" でしょうね。多崎つくるが「創」ではなく「作」と命名されたように。肩の荷が下ります。とグアテマラ内戦の人権侵害報告書を読みながら思うのでした。

しかし、なぜ村上春樹がラテンアメリカであれほど読まれるのか不思議だ。彼の舞台装置への非関与性は、「コミットする」ラ米文豪たちの対極にあるように思われるのだけど。「ネオ」中産階級文学なのかなあ(非コミット性が新しい、的な)。



4.22.2013

チョコレートに関する予備的考察

真のチョコレート好きの方なら賛同していただけると思うが、あらゆるチョコレートの加工品の中で、真のチョコレート好きが一番好きなのは板チョコである。なお、この命題に賛同しない人は真のチョコレート好きではないということになるので、この命題は自己実現的に確かなのであるが、もちろんこれはトートロジーである。しかしこの点についての弁明は、本稿では行論を急ぐ必要上割愛させていただく。

今回お話したいのは、板チョコそのものについて云々というよりはむしろ周辺的な問題、すなわち板チョコの食べ方の作法についてである。無論真のチョコレート好きの皆さんは、板チョコそのものについても多角的、複層的ご意見をお持ちであろうが、その考察は別稿に譲りたい。もっとも、私の個人的な見解では、ミルク・チョコレート派よりもビター・チョコレート派の方が格上だとか、そういう階統制は存在しないのだが。それぞれが好きなチョコレートを食べればよろしい。

話がやや脱線した。さて、これも真にチョコレート好きな方なら賛同していただけると思うが、真のチョコレート好きは板チョコの食べ方に美学をもっている。板チョコの食べ方は、2つの様式に大別できる。第一の様式は、銀の包み紙のすぼまった端の方を破り、銀紙の下部をもってそのままかぶりつく、というものである。このような食べ方を煽動するテレビ・コマーシャルの影響からか、この第一の様式が板チョコの正統な食べ方だと一般に考えられているきらいがある。これに対して第二の様式は、板チョコを平たい場所に置き、ちょうどふろしきやお弁当の包みをひらくように、両手で銀紙の上から3分の2辺りを破り、中のチョコレートを無造作に折って、親指と人差し指でつまんでそっと口にはこぶ、というものである。意識は二つの指と、その間に挟まるチョコレートに集中される。描写の細かさの違いから明らかであるが、真のチョコレート好きがよしとするのは、第二の様式である。

第一の様式の何がいけないかというと、日常生活における儀式性への関心がいささかも見られない点であろう。これはよくない。人生に真の意味で意味なんてないことは、前提としては当たり前である。しかしこれは「前提」であって、だからといって人生に対して皮肉になるのは、生きてゆく上でもっとも避けるべきことの一つであると、真のチョコレート好きなら誰でも知っている。チョコレートとは思想、そしてその実践なのである。

真のチョコレート好きであれば、板チョコを食べる先の様式に伴う音や時間の流れ方にまでこだわりをもっているケースが散見するが、こうした話をチョコレートが特に好きではない人に振っても伝わらない。へー、そうなんだ、という感じである。残念な気もするが、考えてみれば大学でラテンアメリカ政治の講義をしても、学生の反応はよくてこの程度であろうと想像されるので、何らかのへぇと思えるとっかかりを見いだしてもらえるのなら、悪くない反応かもしれない。


4.16.2013

おとなになる

息子のもっているDVDの鉄人映画(邦題は知らない)の中で、主人公のホガード少年に知人の男が自宅で飲み物を勧めるシーンがあります。

 ―何にする?
  ミルクとか… ミルクとか?

 ―エスプレッソをお願いします。

一人前の男としての扱いを望むホガード少年は、苦いコーヒーを出してもらって満足するわけです。コーヒーが美味しいと感じるようになるのは、だいたいいつ頃からなんだろう。苦み、辛み、痛みといったあらゆる不快なことの向こうにある快感を知ることが、大人になることなのかもしれないですね。転調のような。もちろん、比喩的な意味でも。

本屋の中にあるカフェがもっと増えればいいのになー。


4.13.2013

忍者修行中



今日はよく晴れた土曜日。さいたま自然動物公園に遊びにいきました。とにかく広い敷地内には(田舎によくある、山一個切り開いた感じ)、シマウマ・キリン・ゾウ・コアラなど色々な動物がいて、よく考えると動物のライナップも充実しているのですが、息子のお気に入りはなんといってもアスレチック・ゾーン。かっこいい忍者になるんだと、修行にいそしみます。あっとういうまに閉園時間となりました。


スーパー戦隊と巨大ロボット

4.11.2013

些細なお知らせ

これまでブログの雑多なテーマは「院生の雑感」というラベルでまとめてきましたが、そういえばこの4月からもう院生ではないことに気づきました。そこで、とりあえずラテンアメリカに関する雑文には「ラテンアメリカ研究」のラベルを貼り、これに該当しないものについてはそのうち考えまーす。


アンドレスの感想

『瞳は静かに』というアルゼンチン映画(2009年)を観ました。ちなみに原題はAndrés no quiere dormir la siesta(「アンドレスは昼寝(シエスタ)をしたくない」)というとてもいいものですが、邦題をここまでねじ曲げてよいのだろうかと若干疑問に思います。とりわけ映画の内容と邦題に何の関係もないので。

舞台は1970年代軍政下のアルゼンチンで、アンドレスという7、8歳くらいの男の子が主人公です。軍政を扱う映画は多くありますが、この作品からは不思議な印象を受けました。映画の展開がアンドレスの視点を軸にしている一方で、この時代の評価自体も子どもの視角を尊重していることが、不思議な後味の理由かもしれません。すなわち、ここでは軍政時代の「大人のシステム」を子どもがどう見ていたか、それをどのように感情的に、身体的に処理するよう強いられていたかを描き出すことで、弾圧者=悪で、拷問され殺された左翼活動家=犠牲者という図式が非常に相対化されています。しかしながら、単に子どもたち=天使・犠牲者という物語でも決してなく、彼ら自身の冷酷さまで重層的に語られている点で、すごい映画だと思いました。『ぜんぶ、フィデルのせい』というフランス映画(2006年)にも似た視点があります。

今週飯田橋のギンレイでウルグアイが舞台の映画をやっているみたいなのですが、多分行けないな。最近映画館で観たものといえば、ドラえもんとシュガー・ラッシュくらい。まあ、ポップコーンのすすむ子ども映画も楽しいものです。


4.09.2013

新年度雑感


ハクロンを出してからは、息子の幼稚園入園準備で針と糸でチクチクやったり、短編小説を読んだり、適当なDVDを観たり、新しく研究したいと思ってるテーマ関連の本を読んだり、ようするに好きなことをしています。

市役所のおばちゃんたちに、「日本語ぺらぺらになったね〜」と妙な感心をされる息子ですが、ちゃんと会話が成り立つのは楽しいです。実は慌てんぼうのママにはよく、「なんとかなった〜?」と発言します。また、先日従姉妹への就職祝いをなんにしようと息子に相談したところ、「お花がよろこぶとおもうよ」と意見を述べてくれました。お花か〜。いい考えだね。

子どもが言葉を覚える能力には驚かされますが、同時に使わない言語を忘れる能力の高さにもびっくりします。完全に優位だったスペイン語があまり出てこなくなってしまい、パパがかわいそう。夏休みにメキシコで思い出してもらいましょう。


4.03.2013

授業中

4.02.2013

ハクロン報告

ほんとに下(パソコン)ばかり見ていたので気づきませんでしたが、
うちのまわりは田舎なので、桜に加えて土手の菜の花も咲き放題、
世の中は春でした。

というわけで、先月末無事にハクロンを提出できました。
やー、よかったよかった。
直前の二週間ほどはさすがに体にいろいろ無理がきていたのですが、
論文出して久々に有り余る睡眠をとったところ、全部治りました。

最後は勢いで出しましたが、博論を書くのは、総合的に、
とても楽しかったです。
というわけで、皆さんごはんでも食べに行きましょう。



3.27.2013

もうひといき

論文の締め切りが迫ってきました。
3月の私の頭の中は、

 80%:ハクロンのこと
 18%:息子のこと
   1%:ベートーベンは天才だということ
   1%:その他

という内訳だったような気がします。
気づいたら夕暮れの時刻が遅くなっていて、
薄桃色の花がいたるところに咲いていた。
今は立ち止まらずに。
あれ? なんで飛んでるんだろう?
と疑問に思わないうちは落ちない。

3.22.2013

周辺から中心へ

論文を書くことは、少しスポーツ競技や音楽の演奏に似ていて、中でも私は「手順」を大事にしています。パソコンやノートに向かう前は、なるべく頭を真っ白にして、お茶を入れて、気持ちを落ち着かせる。そこから徐々に、頭の中の論理思考運動にスイッチを入れる(周辺から徐々に中心に向かうような感覚が大事)。ぽっ、とこぼれ落ちるように閃いた言葉からアイデアが広がることが多いから、何か単語が浮かんだらすぐに書き留める。ずーっと悶々と考えていればいい考えが浮かぶというものではないですよね。

勉強する本当の面白さは、正解がないことについて考えることなのだと、大学院に入ってから初めて知りました。おそらく多くの人は、同じことを社会に出てから感じるのでしょう。

それでは、あと一週間、博論頑張ります。


3.19.2013

おいこみ

ハクロン締め切り10日前にして、「終章」を目下「書き下ろし中」な状況ですが、ええ前向きに、前向きに。

どうしよう、、、もし10日後に本当にハクロンを出せたら、、、4月から暇になる・・・!!! とりあえずあれやって、あれたべて、あれいって、でも一番は息子さまとたくさん遊ばねば、、、と妄想だけはふくらみます。

あたまがぼんやりしてきたので、ねることにします。

3.11.2013

スーパー戦隊


新しい戦隊モノが始まったそうで、その名も「キョウリュウジャー」。なんのひねりもないのが新鮮です。息子は多くの同世代の男の子同様、戦隊たちが大好きで、日曜日も頑張って7時半に起きて、キョウリュウジャーと仮面ライダー・ウィザードをご鑑賞なさいます(母は両番組が終わる8時半まで寝させてもらえる)。

息子がもってる『全スーパー戦隊ひみつ超図鑑』1頁に、スーパー戦隊の定義がなされていますのでご紹介します。

スーパー戦隊とは、地球をねらう悪と戦うため、チームをくんだ戦士たちだ。(中略)かれらはゆうきと友情、そしてきょ大ロボットで、悪をたおしてきたんだ!

*****

「勇気と友情」からいきなり「巨大ロボット」に、抽象度が急降下しているところがよいですね。

ちなみに今回のキョウリュウジャーが、初代ゴレンジャー(1975年4月〜1977年3月放送)から数えて37代目になります。息子はこれらをほぼ完璧に覚えていて、(字は読めないので)格好を見ただけですぐに「○○レンジャー」だの「××マン」だのわかります。母は何度見てもまったく区別がつきません。でもやっぱり息子の好みは昭和的で、お気に入りはジャッカー電撃隊、サンバルカン、ゴーグルVなどの昭和のヒーローたちです(たしかにこの辺のヒーローたちには「個性」があるんだよなあ)。



3.08.2013

桃亀


中華的桃亀。



モモガメ☆

私が桃亀好きと知る(ブログは知らないのに)、心ある奇特な方からいただきました。これを機に、世界中の桃亀をコレクションしていきたいと思います。皆さんもご協力くださいね〜(思えば、今持ってる3体すべてもらいもの)。

ハクロンが間に合うかもしれないような気がしてきました!
そして金曜日はお風呂の日♨


3.06.2013

余談

さっきの続きの与太話ですが、新聞の意見投稿欄って投稿者の名前、住んでるところ、年齢に加えて、職業を載せますよね。投稿者の職業で圧倒的に多いのは、私の印象では、「無職」です。「72歳 無職」みたいな。内容を読んで、「この無職、ただものじゃねえな」とよく思います。何をやってきた人なんだろうと、ときどき想像をふくらませます。かっこいいなあと、思います。


休憩中

アール・グレイの気高い香りが好きです。こないだ母に習った方法で紅茶を入れたら、おいしくできました(ティーバックですが)。

ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴの代表作に『白の闇』という小説があるのですが(映画化もされていますが、観たことはありません)、同書にはいくつかの特徴的な性格があります。その一つは、登場人物が名前で呼ばれない、というものです。この小説では突然失明するという伝染病が街を襲い、人びとは次々に目が見えなくなっていきます。誰も目が見えないという状況の中で、名前は何の意味も持たない、というようなことを、たしかサラマーゴは登場人物の一人に語らせていました。では彼らはどのように(小説の中で)呼ばれるのかというと、「最初に失明した男」「医者」「医者の妻」「サングラスの女」「斜視の少年」「車泥棒」…とこのような感じで、小説に関係する出来事や身体的特徴、それから職業などに言及することで特定性が付与されています。

これは多くの解釈が可能な面白い実験です。すべての人間の目が見えないと仮定したとき、というのはおそらく、メタファーとして誰一人ちゃんと「見ていない」世の中において、と置き換えられると私は思いますが、まあとにかくそういう世の中において、名前というのはその人の本質には関係のない表面的な記号を意味しているのではないかなと思いました。では、本当には名前に代わる何が彼女を彼女たらしめるのか。ちなみに小説の中では、主人公である「医者の妻」だけ唯一目が見えるんですね。よって、「サングラスの女」とか「斜視の少年」といった身体的特徴に言及される場合もあるのですが、これも多くの場合表面的です。では職業?「医者」というのはここでは目医者さんで、小説の中では単なる記号以上に深いインプリケーションをもっているので、特殊であるともいえます。そうすると、「最初に失明した男」や「車泥棒」のように、その人の行動、あるいは加えてその人の思想や習慣による呼び名が、最も適当であるように私には思えます。

ここから一つの論点に限って一歩議論を進める(横に逸らす)と、職業や肩書きは、ただそれだけでは、その人が何者かを語ることはないだろうと思われます。まあ、少し考えれば当たり前ですが。むしろその人の行動が、彼が何者かを語るのであって、たまに「I cook. =私はコックです」という具合に行動と職業が重なり、さらにはそこに彼の人柄までが示唆される場合もある、非常に幸運なケースが生じうるだけだと考えます。先日読んだ堀江敏幸の『雪沼とその周辺』に出てくる人たちを思い出しました。


3.05.2013

雑感

「はくろん終わったらやる」が、あらゆることへの免罪符となっている今日この頃な桃亀です、こんばんは。ちゃんと元気です。

今日大学で「題目届」を出してきました。「はくろん出します。今月。」と予告しとくためみたいです。優しい大学院係のおねえさんが受理してくれました。

話はとびますが、最近駅前にあるデパートでやたらと「くまのクッキー」とか見かけるので何かと思ったら、「ホワイトデー」なんですね。2年くらいこの時期日本にいなかったもので忘れてました。まあもちろん、なんと商業的なと冷めた目で見ることもできるのですが、私はどちらかというとホワイトデーという催しの日本らしさが気になりました。「もらったらちゃんとお返ししましょう」が制度化されているのって(ここでの制度とは、インフォーマルな規範のようなものを想定しています)、とても日本らしいなあと思って。

ちょっと違う次元でもアナロジーが可能かもしれません。日本はどちらかというと、「私も我慢するから、あなたにも我慢をお願いしたい」という文化ですよね。そういうところの公平さを求める意識は、他の国に比べてかなり強いのではないかと思います。この「公平さ」の意識は、権利意識にもつながっているように見えます。例えば卑近な例ですが、「私はわざわざ始発電車を選んで、10分ホームで待って電車に乗ったのだから、座る権利がある」みたいな。日本の若者は、経験的に言って、アルゼンチン人の若者の10分の1もお年寄りに席を譲りません。

一方、私が住んだことのある外国はだいたい、「私も好きなようにやるから、あなたも好きなようにやってね」という文化です。近所で夜更けまでフィエスタ(ホームパーティ)が行なわれる場合、うるさくて安眠できないことになります。ただし自分に寛容な分、他人にも寛容です。与える量と受け取る量が違っても、そんなことはちっとも気にしません。

無論、どちらがよいという話ではないですが、どちらについても、それぞれの対極にある文化の存在を認識して、自国の規範を相対化すると、より素敵に生きられる気はします。



2.28.2013

日光

2.21.2013

おれかぼくか


息子が唐突に、
「おとこのこは『おれ』っていうんだよ」
と言うものだから、母はびっくりしてしまった。

「たつよしくんも、けいごくんも、おれっていうよ」

たしかに保育園の男の子たちは自分のことを「オレ」と言うのだけど、息子はずっと「ぼく」派だった。

「オレねえ。ママはどっちかっていうと、ぼくが素敵だと思うけどね。」

と私が言うと、しばらく考えこんでから、
「じゃあやっぱりぼくにする」とのこと。

ちなみに彼の用いる二人称単数は「あなた」で、「ぼく」同様、なぜこれが採用されたのかわからないし、日本語習いたての外国人みたいで可笑しいのだけど、まあ彼のキャラクターには合ってるかもしれない。


2.19.2013

雑感

ご無沙汰してしまいました。

けっこう頻繁に息子と行く近所のスーパー銭湯(一応温泉)に、お気に入りのお風呂があります。石の枕に頭をおいて仰向けになる一人用の寝湯なのですが、露天なのでもくもくもくと湯煙の向こうに星が見えて、たまに月も顔を出して、文句なしに最高です。今生きててよかった(しみじみ)と思えるお湯なんですよ。「不安」というのは定義上起こっていないことに関してしかありえないわけですが、今このお湯と私がいて幸せ、と起こっていることにしみじみすることも大事ですね(かつて友人と作った「温泉部」を復活させなければ)。

*****
昨日麻布十番のラーメン屋でお昼を食べていたら、カウンターに貼ってあるバカルディ・ラムのプロモーションが目に留まった。ラムをコーラで割った「キューバ・リブレ」はいかがですか、と推してある。
Cuba Libre. Free Cuba.
ラムとコカコーラで「自由なキューバ」かぁ、、、と由来に興味をもち、帰ってグーグルで調べてみたところ(携帯がスマホではないので)、どうもこの飲み物が生まれた当時の米西戦争・キューバ独立戦争期のスローガン、"Por Cuba libre!"(自由なキューバのために(乾杯)!)に由来するらしい。現代ではラム(キューバ)とコーラ(米国=自由)なんて、なんだか皮肉に思えるけど、当時はもっと素直な感じだったんですね。




2.03.2013

自転車部

闘う日曜日

1.31.2013

連想随筆

三日三晩熱にうなされ、ようやく回復の兆し――初めで、そしてソリッドな――が見えたとき、僕は、まだ生きていてもよいと、誰かに許されたような気がした。

*****

― とこんな風に物語は始まるんです。
― へえ、いいんじゃない。何かが始まりそうだもの。

*****

イタリアのベルルスコーニ元首相が、「ムッソリーニはいいこともした」とかいう発言をしたと先日新聞で読んだ。どこの国も一緒だなあと思う。景気が悪いときは、敵は外に。自尊心は過去に。

*****

ついでにいえば、「いつの時代も一緒だなあ」でもあるだろうか。大恐慌後のナチス・ドイツが歩んだ道も同じだっただろうか。チェコの作家ミラン・クンデラは、その重さと軽さについての論考の中で、以下のように述べる。

 ヒットラーとのこの和解は、回帰というものが存在しないということに本質的な基礎が置かれている世界の、深い道徳的な倒錯を明らかにしている。なぜならばこの世界ではすべてのことがあらかじめ容認され、あらゆることがシニカルに許されているからである。

しかし、逆に回帰がありうるとすれば?
つまり、回帰がないという前提によってヒットラーを許すことで、回帰が生まれるというパラドクスが生じないだろうか?

*****

ミラン・クンデラに対する私の勝手な評価は、「がまんならないけれど、読まれるべき作家」というもので、やはりすごい作家だと思っている。私は彼の描く女性がまったく好きではない。なぜなら、彼女たちは美しいけれど、頭が悪くて愚かで客体かそのいずれかだから。しかし、彼の作品を読む段にあっては、そんなことはどうでもいいのである。


1.30.2013

快癒

民主党の海江田さんが代表質問で、安倍さんの経済政策を新自由主義だと批判していたらしいですが、国の借金を増やして公共事業をたくさんやって国が需要を創出する政策は、新自由主義ではないですよね。誰かつっこんだのだろうか。

息子と二人、まさかのインフルエンザに苦しみましたが、無事に二人とも解熱しました。今日はこはる日和でしたが、みなさん温かくしてお過ごしくださいね。


1.25.2013

Hの話

はい、HAKURONを書いているのですが、ラテンアメリカの政治文化には日本とは全然違うところがあって面白いです。例えば、メキシコやアルゼンチンの議会の名称は、"H. Congreso de la Unión"(メキシコ議会)や"H. Cámara de Diputados de la Nación"(アルゼンチン下院)という具合に、なぜかはじめに"H"がつきます。このHとはなにかというと、"Honorable"(尊敬に値する・立派な)の略なんです。人民によって選出された代議員から成る、尊敬すべき議会というわけですね。日本の国会の枕詞にそんな形容詞がついたら噴飯ものですが、別にメキシコやアルゼンチンの議員が日本の政治家に比べて素晴らしいとか、より腐敗していないとか、そういうわけではなく、バロック的な装飾表現を好む言語とお国柄によるものでしょうか。

ちなみにメキシコの陸軍士官学校は"H. Colegio Militar"といって、こちらも頭に"H"がつきます。こちらのHは"Heroico"(英雄的な・高潔な・勇敢な)の略です。これも我が防衛大学校の枕詞にはなかなかつけれそうにありませんね。

日本の政治・軍事機関にこれらの"H"をつけることがためらわれる理由の一つには、やはり全体主義と国家の暴走による太平洋戦争の記憶が関係しているのだろうと思います。このことは少なくとも2つのコンプレックスを示唆します。第一は、自国の歴史に対するコンプレックス。歴史教科書における「侵略」という言葉を「進出」に替えようという話なんかは、このコンプレックスを如実に表しています。第二は、"H"といえないコンプレックス。世界中の人々が祖国の国旗を愛するような感情を、日本人は抱くことができません。これらの意味において、たしかに日本は「ふつうのくに」ではないのかもしれませんが、別に"H"を用いずとも、母国に対する肯定的感情の表し方や感じ方はあるのではないかと、個人的には思っています。

新自民党政権は教育改革案の中で、「自国を誇りに思えるような歴史教育」を推進していくことを明言していますが、史実を歪めた勝手な解釈に基づく不健全なナショナリズムを「誇り」の拠り所とするのは間違っています。改革には慎重な話し合いが必要です。こどもたちに何を残すかがかかっているのですから。





1.20.2013

1.16.2013

政治・経済雑感

りんじよさんが決まったみたいで、こうきょうじぎょうをいっぱいやって、国の借金は50兆円くらい増えるらしいですが、もう1000兆借金あるから、ここで50増えたっていたくもかゆくもないってことでしょうか。円安の上に財政支出を増やすときんりが上がって、借金をたくさんもってる人(国)はさらに大変みたいですが、借金って返さなくてよいのでしょうか。むつかしいので、「破壊と落下への抗い難い憧れ」と解釈してもよいでしょうか。

アルゼンチンは2001年末のデフォルト前に、国内の債権者に無理矢理債務交換させる(長期のものとか低金利のものと交換する)ということを一年くらいやりましたが、結局万策尽きて経済崩壊と相成りました。日本の状況もこれから似たようなことになるのかなあ。経済危機後にアルゼンチンは左傾化しましたが、日本の場合経済の落ち込みに伴い、敵を外に見いだす的な不健全な保守化傾向が、政治と社会の二つのレベルで見られるように思え、どちらかというとこのことの方が、私を暗澹たる気持ちにさせます。日本が昔のような全体主義に戻るわけがない、と信じている方々には、ぜひタブッキの『供述によるとペレイラは・・・』を今一度読まれることをお勧めしたいですね。

ここでインフレしても、景気はよくなるのかなあ。売り手が買ってほしいほどに、買い手が欲していないのであって、パイ自体を小さくすることを検討すべき(日本人が受け入れるべき)時期に来ているのではないかという気が、個人的にはしています。


1.15.2013

ものがたり


↑左右別の靴下をはくことが流行っている人。

息子はひとり遊びがとても上手で、「ひとりっこ」の想像力は並々ならないことに驚かされる。ひとりで何役でもこなし、ずーっと台詞を口にしながら何時間でも遊ぶ。ふと思い出したように「ママー、遊ぼうよ」と来るのだけど、横にいてもまたすぐにひとりの世界に入るので、そうなったらママはもう退出してよいことになっている(らしい。部屋を出て行っても何も言われないから)。もちろん、やがて飽きるとDVDを観る。

雪明けの今朝は路面が凍結していて危なかったので、バスに乗って保育園に行った。道路がつるつるしていて歩きにくく、何度も滑りそうになったのが面白かったらしく、あとでこのお話を絵本にすることになった(驚かされる出来事が起こると、彼はすぐその話を絵本にしたがる)。物語にすることで、彼は小さな世界を創造し、例えばもらわれなかった子猫を救うのだ。ピギー・スニードが救われたように。それは私にとっても抑え難い欲求としてある。


1.14.2013

ゆき


朝から大雪で、太郎を眠らせ、、、の世界。
やわらかな静寂。
日本中の太郎たちに、平穏な眠りが訪れますように。


1.08.2013

もの書き机


帰京しました。
今年はぜひともハクロンを提出します!
そこで、ものを書く環境を整えました。
おおお、さっそくよいアイデアがわいてきましたぞ。


冬といえば

ゆきみだいふく。
だいすき。