2.08.2012

勇気、あるいは天空を舞うバズ・ライトイヤー

「失恋」という言葉は点過去的な概念だな、とその朝僕は、走りながら考えていた。だからこそ、前向きな概念でもある。自分に対してであれ、他人に対してであれ、「失恋した」といえる時点でそれは過去のものだ。それに比べると自分の置かれている状況は、現在完了進行形だろうか。本当に苦しいのは、「失恋」が点過去になりきれないときなのかもしれない。というわけで僕は、もう10年もずっと失恋し続けている。あるいは、10年もずっと失恋しきれないでいる。


11月の朝8時、確実に季節がある閾を越えたことを感じるに十分な、張りのある空気を肺に思い切り吸い込む。僕が週に2回駒沢公園を走り始めたのは、2年前に公園に隣接する私立大学で『中南米政治論』の講義を担当することになってからだった。講義のある日の朝は、遅くとも7時半には大学に着くようにしている。それから講師控え室の隣にあるトイレで着替えをすませ、公園へ向かう。ある日走っているうちに気づいたのだが、公園のフェンスの一画には、大人がかがめばぎりぎり通れるような「穴」があり、ここから大学と直接に行き来ができた。

はじめは文字通り「先駆者たち」に倣って、公園全体を走っていたのだが、いうまでもなく駒沢公園は広い。当然そこでは2周と3周の差は大きく、ランニング初心者にとってあまりモチベーションのあがる環境ではなかった。そこで、走り始めて1ヶ月を過ぎた頃から、僕は公園内にある丸い池のまわりを走ることにした。1周約200mの池を、初日は10周走った。それから毎回1周ずつ数を増やし、30周に到達したところでそれを維持することにした。この距離が、僕にとっての最適であるように思えたからだ(肉体にとっても、精神にとっても)。


彼女とは10年前の学会で知り合った。学会の後、知り合いの先生に夕食に誘われ、そこに彼女も同席していたのだった。偶然にも自宅の最寄り駅が同じ路線だったので、初対面の僕と彼女は、成り行きのまま一緒に帰ることになった。1時間あまり隣どうしに座って話をしたが、なんの話をしたのか、今となってはほとんど覚えていない。彼女はそれほどスリムな方ではなかったけれど、ひざに置いた手の甲は、意外なほど線が細かった。唯一記憶にある話題が、「空気の井戸」についてである。

「日本の気候には『パティオ』は合わないっていわれてるけど、私はそんなことはないと思うのよ。あれはたしかに乾燥した土地で発展してきたものだけど、でも、温帯・亜熱帯に住んでいる私たちにだって、『空気の井戸』は必要でしょう?」

いつごろから意識しだしたのかはわからないけれど、気がつくと僕は彼女に恋をしていた。彼女の論文を図書館で探して読むと、彼女からの手紙を読んでいるような気持ちになった。学会関連の事務的なメールが来ると、なにかひとつ話題の種を加えて返信した。彼女への想いは、彼女の不在の中で主に大きくなっていった。そして、まったくおばかなことに、僕の気がつかないうちに彼女は結婚してしまった。


走り始めて2年が経つが、やはり一番きついのは2周目である。肺と心臓が悲鳴をあげ、30周なんて誰がなんと言おうと無理だという気持ちになる。しかし不思議なことに、この鬼門の2周目を過ぎると、呼吸がどんどん楽になっていく。10周を過ぎるころには、このままどこまででも、いつまででも、走り続けていられそうな気さえしてくる。このあたりから僕は、「走っていること」以外のことをいろいろと考えだす。外の風景を風景として、周りの音を音として認識しはじめる(僕はこの2年間まだ一度も、音楽を聴きながら走ったことがない)。

池の周りには金属のフェンスがめぐらされていて中には入れないようになっているのだが、ふと池の方に目をやると、フェンスの僕の肩ぐらいの位置に、白い立て札がくくりつけてあるのが目に入った。

 飛んでいるんじゃない

立て札にはこう書かれてあった。
誰かのいたずらだろうか。
これまで一度も気づかなかったけれど、その立て札はフェンスおよび池のある風景にとても自然になじんでいて、今とってつけたもののようには見えなかった。

奇妙な気持ちを抱えたまま走り続けると、ひとつめの立て札からちょうど180度の位置に、また立て札を見つけた。

 飛んでいる風に 落ちているんだ

ふたつめにはこう書いてあった。
こんな立て札があったなら、今まで気づかなかったわけはないと思うのだが。

いつも通り30周を走ったが、僕が30周走り終えるまで、2枚の立て札は僕のことなど気にかけない風にただそこにあった。
何度見てもこう書かれていた。

 「飛んでいるんじゃない
  飛んでいる風に 落ちているんだ」

走りながら、そして走り終わった後は歩きながら、僕はこの言葉の意味についてある程度時間をかけて考えてみたのだけど、よく意味が分からなかった。そもそも、誰かに向けて、意味をもった言葉として書かれたものなのだろうか。あまり池やフェンスに関連のある内容のようにも思えない。しかし、妙に存在感のある言葉だった。

頭の中の言葉を反芻しながら、僕は公園の向かいにあるスターバックスに入った。いつものように、トールサイズのドリップコーヒーを頼む。このチェーン店では、「ドリップ」というと「本日のコーヒー」がでてくることになっている。

「今日は、期間限定のグアテマラのコーヒーなんですよ」
と大学生くらいの若い店員が言った。
彼女の「グアテマラ」の発音が、グアテマラが地球上のどこにあるかも、そこで行なわれた激しい内戦が終わったのがほんの15年前のことであるとかも、確実に知らない無邪気なものだったことに(それはいささか洗練されすぎてさえいた)、僕は一瞬違和感を感じたけれど、こういうのを人は職業病と呼ぶのかもしれない。

期間限定といわれてボードに目をやると、ピンクと空色のチョークでそのコーヒーの銘柄が書かれていた。

 Guatemala Casi Cielo

グアテマラ カシ シエロ、 思わず声に出して発音してみる。
グアテマラ 天にほど近き場所。
Guatemala, almost heaven.

ふと、思った。
中米グアテマラの高地、ほとんど天空に届くこの場所でコーヒーの実をつむ人びとは、眼下に鳥を見下ろすこともあるのだろうか。鳥は飛んでいて、そして同時に落ちている。飛べると信じていた者にとって、飛べないとわかったときの絶望は多大だ。そしてそれを認めるのは、もっと勇気のいることだ。しかし。
しかし、飛べないことを認めて初めて広がる風景もある。

今日は立て札続きだな。
そんなことを思いながら僕は店を出て、足早に大学へ向かった。


This is not flying, this is falling with style.
Buzz Lightyear (Toy Story)

Guatemala Casi Cielo.
Starbucks Coffee


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