あの立て札の一件以来、僕のまわりではちょっと普通じゃないことが立て続けに起こり始めた。とはいえ、もしかするとずっと前から、僕の人生であれ誰の人生であれ、少し時間をかけて考えてみれば奇妙なこと、というのはつねに起こっていたはずで、僕がそのことに気づいていなかっただけなのかもしれない。ものごとというのは、見ようとしなければ見えないものだから。
例えば、「みどりいろのいえ」の話をしよう。
ある晴れた火曜の朝、いつものように駒沢公園を走っていると、池の脇から20歩ほど入った場所に、犬小屋くらいの小さな「いえ」があることに気がついた。僕が走っているアスファルトよりも一段高い土の部分に建てられたその「いえ」は、まわりに木々が密集していて薄暗いせいか、あまり目立たない。それでも遠目に目をこらして見ると、「いえ」がみどりいろであることがわかった。僕はこれを犬小屋であると断定した。なぜなら、もう一周走ったところで再び目をやると、「いえ」の後ろから中型の雑種犬がのそのそと顔を出したからだ。
木曜に公園を走ったときにも、そのみどりいろの犬小屋は同じ場所にあって、同じ犬が「いえ」にすっぽり収まったかたちでうたた寝をしていた。初夏の気持ちのいい朝だった。
初めにして最大の変化らしきものが起こったのは、次の火曜日である。その学期の講義は火曜と木曜だったので、僕は週二回これらの曜日にのみ駒沢公園を訪れていた。「みどりいろのいえ」は、木曜日に見たときよりも明らかに大きくなっていた。誰の目にも、明らかに。なぜなら、「いえ」から顔を出したのは、犬ではなくて人間だったからだ。ただし、デザインは犬小屋だったときのままで、出入り口もアーチ型の、いわゆる犬小屋的なものだった。扉はない。屋根はプラスチックの簡易的なもので、よく見ると、池の方から見える側面の壁はみどりいろに塗られておらず、その部分だけが白かった。
人間はふたりいた(犬もいなくなったわけではなかった。大きくなった「いえ」を出たり入ったりしているところを見かけた)。ひとりは公園からすぐの交差点の角にある八百屋の息子だった。ひどく値段が安いことで有名なこの八百屋には、僕も大学の帰りに何度か立ち寄ったことがある。ひょろりと背の高いその青年は、控えめにいってもあまり目立つタイプではなく、背が高いこと以外に特筆すべきしるしはなかったが、逆にそのためにすぐにわかった。一緒にいたもうひとりの男は、青年の父親くらいの年の頃に見えたが、誰だかはわからない。「いえ」の入り口には遠目から見ても実に多様なもの —古びたマットレスの上に、やかん、缶詰、水着とゴーグル、大小さまざまな色・形の椅子、モノポリー、そしてカール・ポランニー全集まで— が山積みになっており、このひとたちは比較的長い時間をここで過ごす気でいる、ということを予測させるには十分だった。
木曜日に再び公園を訪れると、先日外に山積みにされていた荷物はすべて中に運び込まれて整理されたようで、そこには「暮らし」の香りすら漂うものがあったが、特に外見的な変化は見られなかった。更なる異変が起こったのは、その次の火曜日である。犬に仔犬が生まれたのである。4匹の小さな命に乳を与える雌犬の表情は、完全に母のそれであった。これ以降、毎週僕の想像の範疇を超える新たな変化に僕は驚かされることになるが(ただし、「いえ」の拡大という初期の変化が僕に圧倒的な驚きを与えたため、その後の変化はそれに比べると見劣りするものとなったが、それでも毎回予想しない展開に驚かされた)、ふいに僕は、変化にある法則があることに気がついた。すなわち、変化(それも急激な)が起こるのは決まって火曜日で、火曜日から木曜日にかけては、それがあたかも永遠に続くことが当然であるとでもいうかのような、静態的な暮らしの継続が見られるのである。まるで、進化論か、ある種の人生の縮図を見ているようだった。
珍しく梅雨の晴れ間となった火曜日の朝、八百屋青年が結婚した。結婚相手は、公園の向かいのスターバックスの店員で、もうひとりの「いえ」の住人である男性が誓いの証人役のようだった。僕がとやかくいうことではまったくないのはわかっているが、花嫁と花婿の間には、控えめにいってもまるっきり何の接点も見いだせなかった。「スターバックス」から日本中でもっとも遠い人間がいるとすれば、それはわが花婿であっただろうし(概念的な話だが)、「グアテマラ」の発音で僕をいらだたせたあの子の人生に起こりうるあらゆる出来事のうちで、「みどりいろのいえ」に嫁に来るということ以上にありえないことはないという確信があった。それでもふたりはわらっていた。それをみて僕は、もしかすると、誰とその後の数十年をともに過ごすかなんていうことは、大恋愛の末だろうがくじ引きで決まったことだろうが、大差はないのかもしれない、という気がした。より重要なのは、その後の生き方についての態度なのだろう。まあ、結婚したことのない僕には、詳しいことはよくわからないけれど。
木曜日の彼女は、ずっと前からそうであったかのように、「みどりいろのいえ」のひとになっていた。
その翌週の火曜日、4匹のこどもを生んだ母犬が死んだ。小雨の降る、薄暗い朝だった。「みどりいろのいえ」の脇で、静かに葬儀が執り行われていた。4匹の仔犬たちは、完全に何が起こったのかを把握しているようだった。ふと、何かが終わりに近づきあることを僕は悟った。
それは、残すところ木曜の最終講義のみという学期末の火曜日に起こった。世田谷区役所を名乗る男性が、「みどりいろのいえ」に向かってメガホンでなにやらぼそぼそと述べている。「区役所としましては、都市公園法に基づく公園の違法占拠行為に対して自主的な撤去を再三求めて参りましたが、その気がないようでございますね、そうなるとこちらも少々乱暴な手段に訴えるしかありませんわけでして、そのあたりご了承ねがいたい、、、」とこのような内容だ。僕は、自分自身に対していわれたかのように、背筋が凍りつく思いがした。法律や権力にかかれば、こんな「みどりいろのいえ」なんて、明くる朝には跡形もなく消滅させてしまうことだって可能だろう。なにしろ、「みどりいろのいえ」は違法なのだから。
果たして、木曜日の朝、「みどりいろのいえ」はこつ然として消えていた。僕は、池の脇から20歩ほど、それがあった場所に近づいてみたが、そこにそれがあったことを示すものはもはやなにもなかった。「みどりいろのいえ」なんてもしかすると初めからなかったのかもしれない、という考えが一瞬頭に浮かび、僕はその考えの恐ろしさにはっと我に返った。僕たちがここにいたことを、たしかにここにあったことを、証明するものなんてなにもないのだ。そういうことなのだ。
以来僕は、「みどりいろのたね」を探しているが、それはまだ見つかっていない。でもまだ僕は、諦めてはいない。歴史の種明かし —あるいは、物語の結末— を知っているものは、たしかにそれを生きる登場人物たちを裁くことは、本質的にはできないものだから。
そういうことなのだ。
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