アール・グレイの気高い香りが好きです。こないだ母に習った方法で紅茶を入れたら、おいしくできました(ティーバックですが)。
ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴの代表作に『白の闇』という小説があるのですが(映画化もされていますが、観たことはありません)、同書にはいくつかの特徴的な性格があります。その一つは、登場人物が名前で呼ばれない、というものです。この小説では突然失明するという伝染病が街を襲い、人びとは次々に目が見えなくなっていきます。誰も目が見えないという状況の中で、名前は何の意味も持たない、というようなことを、たしかサラマーゴは登場人物の一人に語らせていました。では彼らはどのように(小説の中で)呼ばれるのかというと、「最初に失明した男」「医者」「医者の妻」「サングラスの女」「斜視の少年」「車泥棒」…とこのような感じで、小説に関係する出来事や身体的特徴、それから職業などに言及することで特定性が付与されています。
これは多くの解釈が可能な面白い実験です。すべての人間の目が見えないと仮定したとき、というのはおそらく、メタファーとして誰一人ちゃんと「見ていない」世の中において、と置き換えられると私は思いますが、まあとにかくそういう世の中において、名前というのはその人の本質には関係のない表面的な記号を意味しているのではないかなと思いました。では、本当には名前に代わる何が彼女を彼女たらしめるのか。ちなみに小説の中では、主人公である「医者の妻」だけ唯一目が見えるんですね。よって、「サングラスの女」とか「斜視の少年」といった身体的特徴に言及される場合もあるのですが、これも多くの場合表面的です。では職業?「医者」というのはここでは目医者さんで、小説の中では単なる記号以上に深いインプリケーションをもっているので、特殊であるともいえます。そうすると、「最初に失明した男」や「車泥棒」のように、その人の行動、あるいは加えてその人の思想や習慣による呼び名が、最も適当であるように私には思えます。
ここから一つの論点に限って一歩議論を進める(横に逸らす)と、職業や肩書きは、ただそれだけでは、その人が何者かを語ることはないだろうと思われます。まあ、少し考えれば当たり前ですが。むしろその人の行動が、彼が何者かを語るのであって、たまに「I cook. =私はコックです」という具合に行動と職業が重なり、さらにはそこに彼の人柄までが示唆される場合もある、非常に幸運なケースが生じうるだけだと考えます。先日読んだ堀江敏幸の『雪沼とその周辺』に出てくる人たちを思い出しました。
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