4.22.2013

チョコレートに関する予備的考察

真のチョコレート好きの方なら賛同していただけると思うが、あらゆるチョコレートの加工品の中で、真のチョコレート好きが一番好きなのは板チョコである。なお、この命題に賛同しない人は真のチョコレート好きではないということになるので、この命題は自己実現的に確かなのであるが、もちろんこれはトートロジーである。しかしこの点についての弁明は、本稿では行論を急ぐ必要上割愛させていただく。

今回お話したいのは、板チョコそのものについて云々というよりはむしろ周辺的な問題、すなわち板チョコの食べ方の作法についてである。無論真のチョコレート好きの皆さんは、板チョコそのものについても多角的、複層的ご意見をお持ちであろうが、その考察は別稿に譲りたい。もっとも、私の個人的な見解では、ミルク・チョコレート派よりもビター・チョコレート派の方が格上だとか、そういう階統制は存在しないのだが。それぞれが好きなチョコレートを食べればよろしい。

話がやや脱線した。さて、これも真にチョコレート好きな方なら賛同していただけると思うが、真のチョコレート好きは板チョコの食べ方に美学をもっている。板チョコの食べ方は、2つの様式に大別できる。第一の様式は、銀の包み紙のすぼまった端の方を破り、銀紙の下部をもってそのままかぶりつく、というものである。このような食べ方を煽動するテレビ・コマーシャルの影響からか、この第一の様式が板チョコの正統な食べ方だと一般に考えられているきらいがある。これに対して第二の様式は、板チョコを平たい場所に置き、ちょうどふろしきやお弁当の包みをひらくように、両手で銀紙の上から3分の2辺りを破り、中のチョコレートを無造作に折って、親指と人差し指でつまんでそっと口にはこぶ、というものである。意識は二つの指と、その間に挟まるチョコレートに集中される。描写の細かさの違いから明らかであるが、真のチョコレート好きがよしとするのは、第二の様式である。

第一の様式の何がいけないかというと、日常生活における儀式性への関心がいささかも見られない点であろう。これはよくない。人生に真の意味で意味なんてないことは、前提としては当たり前である。しかしこれは「前提」であって、だからといって人生に対して皮肉になるのは、生きてゆく上でもっとも避けるべきことの一つであると、真のチョコレート好きなら誰でも知っている。チョコレートとは思想、そしてその実践なのである。

真のチョコレート好きであれば、板チョコを食べる先の様式に伴う音や時間の流れ方にまでこだわりをもっているケースが散見するが、こうした話をチョコレートが特に好きではない人に振っても伝わらない。へー、そうなんだ、という感じである。残念な気もするが、考えてみれば大学でラテンアメリカ政治の講義をしても、学生の反応はよくてこの程度であろうと想像されるので、何らかのへぇと思えるとっかかりを見いだしてもらえるのなら、悪くない反応かもしれない。


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