5.20.2012

夢

最近よく同じ主題の夢をみます。

その主題とは、「飛行機に乗り遅れそうで、すごく急いでいて、はらはらするのだけど、結局ぎりぎりで間に合う」というものです。

ざっとあらすじをいえばこれだけなのですが、実際一つ一つの夢の「様式」は違っています。例えば、昨晩みた夢では、どうやら都内のホテルに泊まっていて寝過ごしたみたいで、成田に向かうリムジンバスに慌てて乗ろうとするのだけど、あまりよく覚えてませんがいろいろ障壁があってなかなかバスに乗れない、フライトはあと3時間後に迫っている、で、はらはらするのですが、結局バスに乗れました。その前に記憶のある夢では、モスクワの空港みたいな空港(モスクワに行ったことは一度もありませんが、あれはモスクワをモデルにしているという確信がある。あ、でも、もしかすると深夜のJFKの第5ターミナルとかかもしれない)で迷子になっていて、荷物を引きずりながらはらはらしているのですが、結局飛行機に乗れたみたいで、座席がビジネスクラスみたいで快適でした。

今朝起きて、この主題の夢を最近よくみることに気づいたのですが、厳密に何回みたかは覚えていません。ぼんやり覚えている限りで、少なくとも今年に入って4回はみてると思いますが、4回同じ主題の夢といえばどう考えても多い気がします。

こういうことがあると、そこにシンボリックな何か以上の「暗示」を求めたがるのが人情というもので、これは予知夢だろうかなどと考えてしまうのですが、おそらく「公平性の観点」からすれば、逆の因果関係のもっともらしさについても考えておく必要がありそうです。つまり、「夢→(将来的な)現実」ではなくて、「過去の経験に基づく深層心理+疲れ→夢」という因果関係です。後者の方が圧倒的にロマンチックでないのですが(特に「疲れ」という要因などまったくロマンチックではない)、「公平性の観点」からは、妥当そうです。(なお、ロマンチックかそうでないかは、私にとって人生における幅広い選択の際の重要な基準の一つです。)

ようするに、私はいろんなことをぎりぎりで乗り切るところがしばしばあって、実はそれにけっこう疲れていて、こういう夢をよくみるのかもしれません。そして思うに、夢というのは一種の昇華なんですよね。デトックスともいえるかもしれない。もしかすると、なるべく覚えておいたりすることなく、どんどん夢をみた先から忘れて外に出していった方がいいものなのかもしれません。精神的な疲れや負担を、夢によって解放している側面は大きい気がします。おそらく夢をみることができなかったら、現実世界に何らかの代替行為を求める必要が生じてくるのではないでしょうか。そして、「ひとの夢」しか見ることができないのも、他人の老廃物を一手に引き受けることになるわけですから、苦しそうです。

「この世界は、たくまずして残酷でもある能力を、むやみに人に押しつける。持たされてしまったものを人が使いこなせるかどうか、世界の知ったことではない。」
ジョン・アーヴィング「ひとの夢」


・・・純文学と通俗小説の境目がやっぱりよくわからない。




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