というのが前回のだいたいの結論でした。
さて、研究の学術的意義というと、今までの研究の蓄積にこんな知見を加えたとか、従来の支配的な見方をこんな風に修正したとか、これまで注目されてこなかった事象や理論のある側面に着目したとか、そういうことが含まれますが、それでは、研究の「人類にとっての意義」とでもいうべきものとはなんだろう、と考えてみました。前回の愚考から、実用性にかかわる意義は、本質的でも必然的でもないのではないか、というのが話の出発点です。主に人文系の学問を念頭においた話ですが、本質的には理系の学問にも通じる話なのではないかと思っています。理系のことはよくわからないので、雑駁な印象ですが。
ところで、アメリカでは博士号のことをPh.D.といいますが、これは「ドクター・オブ・フィロソフィー」のことです。物理学の博士号もPh.D.ですし、政治学ももちろんPh.D.です。フィロソフィーとはこの場合、高等な学問一般を指すといわれていますが、博士課程の研究以上になると、もうなんもかんも一緒くたにフィロソフィーなわけです。たしかに、どんな学問であれ、ものの見方のエッセンスを突き詰めれば、著者の哲学・思想に行き着くように思われます。
この考え方には、なぜ研究するかのひとつの回答が隠されているような気がします。おそらく、研究や研究することになんらかの人類的な意義があるとすれば、それは広く「文化」と呼びうるもの —宇宙・自然・人間についての探求にかかわるあらゆるものの見方や考え方を含む— を、今より1ミリだけ、1グラムだけ、豊かにすることではないだろうかと思うのです。その豊かになった分だけよけいに、世界はきっと面白くなるのではないか。そして、それを誰かと共有することで、面白さは何乗にでも大きくなるのではないかと。おそらく研究の本質的な意義は、それ以上でも以下でもなく、だからこそ往々にして「解答」よりも「問いの立て方」や「解にいたるプロセス」の方が重要となるのだと思います。以上の意味において、誤解を恐れずにいえば、研究はある種の労働がそうであるのと同じように、遊びに近いものであり、遊びは人生においても人類の歴史においても、いつだって重要なものでした。
書き始めたときに思っていたほど面白い話にはなりませんでしたが、そして申請書にはもちろん書きませんが、以上が本日の仮説的結論です。
0 件のコメント:
コメントを投稿